「……ぐっ、ってぇ〜。」
声が上がる。呻き声が上がる。――しかしそれは、少女のものではなかった。
少女は声の方を見た。
するとそこには、少女とトロールとの間で、トロールの大きな拳を、全身を使って受け止めていたムーンサルトの姿があって。
「……う、うそ…。」
「は、はは……大丈夫、か?」
「それ、こっちのセリフ…。」
「俺…は、大丈夫、なっ!」
ムーンサルトは懐からナイフを取り出すと、それを深々とトロールの腕に突き刺した。
トロールは、ナイフの刺さった腕を押さえると、1歩2歩と後退する。
「な、大丈夫っしょ。俺ってば結構、頑丈なワケよぉ。」
満面の笑顔でにやりと笑うと、ムーンサルトは使い込まれた片手剣を、鞘からスラリと抜いた。
そしてそれを構えると、トロールを睨みつけながら、1歩、2歩と、少女から徐々に距離をとってゆく。
「ちょっと、いったい……」
「悪い、ちょっと黙っといて。んで、クロミヤと合流して、待機しといてほしいワケ。…大丈夫、だ。パパッと終わらせて、やるから、な。」
自信満々の笑みを口元に貼り付けたムーンサルトは、トロールの目を引きつけながら、ますます少女から離れてゆく。
そのどっしりとした姿は、夕食時や先ほどまでとは違い、気高く、凛々しくて、そして頼もしかった。
少女は言われた通り走った。足の痛みを堪えて走った。
ムーンサルトの姿が頼もしくて、全てを任せようと思ったからじゃない。
剣を持つムーンサルトの手が、足が、ガクガクと小刻みに震えているのを、見たからだ。



クロミヤは呆然とその光景を見ていた。
少女が殴られる直前、ギリギリのところで、ムーンサルトが少女を庇うようにして、その前に立った姿を。
ありえない。
少女のようなか細い非力な者だったら死ぬかもしれないほどの威力を持つトロールの一撃を、ムーンサルトは、もろに全身で受け止めたのだ。
しかも本人は、あの一撃を食らったのにも関わらず、トロールとサシで戦おうとしているのだ。
しかしその光景を、クロミヤはただ呆然と見ているしかない。
皮肉なもんだ。
クロミヤは俯くと、小さく鼻で笑った。その笑みはまるで――



「く、クロミヤぁ〜」
息を切らしながら、少女は叫んだ。
叫んだといっても、思っていたよりも声は出なかったが。
少女の声に気付いたのか、クロミヤは顔を上げる。その顔には笑みが浮かんでいる。いつもと同じ、余裕綽々の笑みだ。
「どうかしましたか、そんなに慌てて。」
これも、いつもと同じ余裕な態度。
こっちがあんなに必死の思いをしていたというのに、こいつは余裕顔でへらへら笑っていたかと思うと、無性に腹立たしかった。
「な、なんで、そんなに余裕なのよぉ〜。クロミヤのバカぁっ!!」
でも、でもそんなクロミヤの余裕顔を見ると、不思議と安心できた。足の力が自然と抜ける。
これが、ホッとして腰が抜けた、というヤツだろうか。少女はその場にへなへなと座り込んだ。
そして、妙に安心したせいか、涙までが零れ落ちてくる。別に泣きたくなんてないのに。それでもぼろぼろと、涙が落ちてきて。
それと共に、いろんな思いが溢れてきた。怖かった。死んじゃうかと思った。足が痛い。胸が痛い。ひどくだるい。
「ムーンサルトが、どうしよう……。」
それでも口から飛び出したのは、この一言だけだった。
でもそのたった一言が、クロミヤの顔からあの余裕の笑みを消してしまう。
クロミヤは驚いたような表情でムーンサルトのいる方向、少女の後ろに目をやると、顔をしかめた。
少女は悟った。今、後方で繰り広げられている戦いの状況は――
「アタシのせい。アタシのせいで、どうしよう…。」
「大丈夫ですよ。俺が石ならムーンサルトは大岩ですから。」
何故か、クロミヤの言葉に、皮肉めいたトゲが混ざっているように聞こえた。
それからのクロミヤの行動は早かった。クロミヤは、さっと伝説の剣の柄と鞘を持つと、大きく息を吸い込んで、
「抜けろこの中古のボロクズ剣!!」
気合一発。…というよりもむしろ悪態一発。剣を抜こうと左右の手を両側に引く。
しかし、剣は全く抜ける気配がない。そででも、何度も、何度も、クロミヤは剣を抜こうと力任せに剣を引く。
さっきから試しているのだから、力任せで抜けないことは、もう十分知っているはずなのに。それでも、クロミヤは諦めない。
やはり、何度も、何度も――
「そんな方法じゃあ、抜けないのに。」
思わず、呟いていた。それに、クロミヤは剣を引く手を止めて、怪訝な顔をこちらに向けてくる。
少女は、言葉に詰まった。
なんで剣の抜き方を知ってたのか、追求されたらどうしようか。知ってるのに知らないとか言っちゃったし。
それに、怒るよねぇ。怒られたら嫌だなぁ。どうやっていい訳しようか。どうやって……
そこで、少女はハッとした。いつの間にか、言い逃れすることばかり考えていた。
その考えを振り払うように、少女はぶんぶんと首を左右に振った。
人の命がかかってるのに、迷ってる暇なんてないのっ!
少女は意を決すると、軽く息を吸い込んで一息に言った。
「思いつく限りのクッサイセリフを叫びながら鞘を持った方の手を引くの!」
「…………はぁ?」
「だから、思いつく限りのクッサイセリフを叫びながら、鞘を持った方の手を引くの!
そうすれば、剣は、抜けるから。」
言っちゃった。言ってしまった。でも、不思議と後悔はない。
「なんで黙ってたんですか?」
淡々としたクロミヤの声が響く。
ほら、やっぱり聞かれた。少女がちょっぴり後悔した、思った矢先だった。
「冗談。そんなこと聞いてもなんの得にもなりませんしね。その代わり、ムーンサルトには言うなよ。カッコがつきませんからねぇ。」
クロミヤの口から降ってきた言葉は、あまりにもあっさりとしていて、それ以上に意外だった。
それに少女はそっと顔を上げる。するとクロミヤは、にやりと、笑っていた。
「あ。あと嘘だったら、承知しませんよ?」
無駄に余裕綽綽の、あの笑みだった。



クロミヤは踵を返すと、ゆったりとした調子で走った。
ムーンサルトがトロールと戦っている場所までは、まだ距離がある。
その間に、とてつもなく重大な問題を処理する必要に、クロミヤは迫られていた。
少女の言っていることが嘘か真かは、彼女を信じる方向でよしとして、問題は少女の言った剣の抜き方だった。
少女の言った言葉を、クロミヤは思い出す。
『思いつく限りのクッサイセリフを叫びながら、鞘を持った方の手を引くの!』
「クッサイセリフって、なんだよ。」
吐き捨てるようにクロミヤは呟いた。そう、問題はクッサイセリフだった。
みんな仲間だとか、お前を信じるとか、愛と勇気は世界を救うとか、それらしき言葉は思いつくのだが。
……そんな恥ずかしいこと、言えるわけがない。
かといって、このまま剣を抜かないというわけにもいかないだろうし。いや、でも。
「まぁ、今回はムーンサルトが一人でなんとかするでしょう。」
そう、戦況は、実はさほど悪くもなかったのだ。
確かに、ついさっきまではムーンサルトの明らかな劣勢だった。
だが、確実に、盛り返してきている。あのでかい一撃をもろに食らったのにも関わらず、だ。
これなら、ムーンサルトとトロールの戦いをじっくり見物しながら、 別の剣を抜く機会の時のためにもうちょっとマシな感じのクサいセリフを考えることが――
クロミヤの思考を遮って、どんっ、という鈍い音が鳴った。
慌ててクロミヤは顔を上げて、絶句した。
もろにトロールの一撃を食らった、ムーンサルトの姿が目に飛び込む。もう、考えてる暇はなさそうだ!
「…お願いですから死ぬなよッ!!」
クロミヤは歯を食いしばると、気合を入れて駆け出した!



ムーンサルトは、自分の腹に鈍い衝撃が走ったのを感じた。
足から力が抜け、意識が飛びそうになるのを、なんとか持ちこたえる。
だが、今のダメージはデカい。今度は前とは違い防御姿勢をとったものの、ほとんどもろに食らったといってもいいくらいだ。
次の一撃が来る。
考えるよりもまず先に、足が勝手に動いた。
よろめくように2、3歩後ろに下がると、上体を反らして紙一重のところで蹴りをかわす。
ひゅっ、とムーンサルトは軽く口笛を鳴らす。危なかった。今の蹴りをまともに食らっていたら、間違いなくあの世逝きだ。
さらに次の一撃を警戒して、ムーンサルトはさらにトロールとの距離をとろうと足を動かした。だが。
「のあっ!?」
見事に足がもつれた。
どうにか持ちこたえようとするが、どうにもできずにそのまま無様に転ぶ。
…こんなところをオヤジに見られていたら、なんと言われるやら。
渋い顔したオヤジを思い浮かべて、ムーンサルトは苦笑した。苦笑して、身体の痛みに顔をしかめる。
トロールが拳を振り上げる。しかし、ムーンサルトは動かない。いや、動けないといった方が正確だろう。
腹のダメージがデカかったのか、転んだときの打ち所が悪かったのか、身体が動かない。
拳を避けるどころか、防御姿勢をとって急所を守ることすらもできない。おまけに、意識すらもぼうっとしてきて。
まずったな。こりゃ、オヤジやカッシーナのお頭(注:『月の涙<ルーナ・ラルモ>』の先々代のお頭)にも怒られちまうや。
朦朧もうろうとする意識の中で、ムーンサルトは死すらも覚悟した。その時!
「カンショは、焼き芋派だぁあああああああ!!!!」
思いのほか近くから、乱暴に怒鳴りつけるような声が耳の中に響いた。
いや、意味不明っしょ。なんでこんな時に焼き芋なワケ!?
ムーンサルトはくらくらとする頭をを持ち上げて、声のした方を見上げた。
すると、拳を振り上げたまま後ろを振り返るトロールの頭上に、光があった。
星が落ちてきたような、強い光だった。
その光の下に、光を掲げる黒い人影がある。光の加減か意識の具合か、その人物の顔は判別できない。
だが、この状況であんな意味不明なセリフを叫ぶ人物は、一人しかいない。
ムーンサルトは断言できる。
光を掲げる黒い人影が、抜き身の伝説の剣を振り上げた、クロミヤなのだと。
なんだ。あいつ、剣、抜けたじゃねーか。
クロミヤが光、もとい剣を振り下ろす。その光の白に、ムーンサルトの視界が埋め尽くされてゆき――

不思議な安堵感に包まれながら、ムーンサルトは意識を失った。





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